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慈恩弘国営業日報0081006
わたしの名前はランバラル
数知れぬ死線をくぐり抜けてきた
ジオン公国の元軍人だ。

宇宙世紀008年 10月 6日 晴れ


わたしの父、ジンバラルが亡くなるのは、
遠い未来の宇宙世紀のことだ。

しかし、
わたしの日本国における父が亡くなったのは、
西暦2004年、4年前のことになる。

すい臓癌であった。

病気の発見が、
同時に父に残された命の時間の宣告となった。


父は、頑固で偏屈で、お人よしで、
少々ズレたところがあり、
よく人にバカにされていたようだが、
正直で勇気があった。

病気の原因は、
おそらく生涯やめることのできなかった
タバコが原因であろう。

父の病名と、
残された人生が数ヶ月であると告げられた直後、
わたしたち家族は狼狽し、
なにかひとつでも光明はないかと、
その、地元の病院で紹介状を書いてもらい、
別の専門の病院などを訪ねたりしたが、
いずれも同じような見立てであった。

結局父は、
遠くの専門の病院ではなく、
もとの地元の病院で治療を行うことになった。

幸い、主治医となったH先生は、
この癌の専門医であった。


助かる見込みがないのに、
治療を行う意味があるのか。


焦りと恐怖と虚無感が、
平々凡々としたわたしの日常をあっさり破壊した。

わたしの家は根っからの貧乏である。
そのうえ、父は入院保険にも、
生命保険にも入ってはいなかった。

今病床で、まだ元気な父と会話したその足で、
お寺や葬儀屋に、
費用の相談をしにいった。

とても強くて大きな虚無感が、
逆にわたしの精神を無感情にしたので、
そのような異常な行動でも、
わたしは冷静に遂行することができたのかもしれない。


父の治療は、
主に日常生活をとりもどすことに重点がおかれた。
そのおかげで、
父は比較的すぐ退院することができた。

わたしは、毎週末、
実家の舞鶴へ帰った。

そして父と釣りに出かけた。


わたしと父は、
もう10年以上まえから、
ゴールデンウィークと正月に、
2人で釣りに行くことがきまりになっていた。

長年をかけて2人でみつけた、
爆釣ポイントがあった。

父は人ごみが嫌いで、出不精であったため、
タバコとテレビ。そして、
母とやっている畑と年に2回のわたしとの釣りが、
楽しみであったようである。


父は、仕事上の事故で、
視力をほとんど失っていた。
釣り場まで手を引いていくものの、
釣りの仕掛けは、わたしの助けをこばみ、
自分でつくった便利な道具を駆使して、
仕掛けをこしらえ、

時にはわたしより釣果を上げた。

季節はちょうど小鯵のまわりはじめた季節。
毎日大漁であった。
釣りの日の夕食は、鯵の天ぷらやキスの塩焼きなど、
釣れた魚が食卓に並ぶ。

今まで、父はなぜか自分が釣った魚は食べようとしなかった。
父の出は漁師の家である。
父いわく、こんな雑魚は食べるに値しないそうだ。
しかし、病気で入院してからというもの、
よく美味しいといって食べていた。

食卓がにぎやかであったことも影響していたのかもしれない。
わたしには下に2人弟がいる。
わたしたち兄弟3人は同じ気持ちで、
毎週末には必ず実家へ帰ってきていたのだ。

わたしたちは、
父の病気のおかげで、
忘れかけていた家族の絆をとりもどすことができていた。

思えば、ほんとうに永く、
わたしは、親や兄弟を忘れていた気がする。

親元を離れ、
自分で仕事をするようになり、

わたしは、忙しい生活のなかで、何を無くしていたのか。
まったく気づかずにいたのだ。


このころ、
どうやら、いつのまにかわたしたちは、
ずいぶん味気ない家族関係になっていたことに
皆が気づいた。


夏も盛りとなり、
墓参りの時期になった。

母と、父の親元とは、
些細なことが原因で疎遠になっており、
父方の墓参りは、
ずっと、わたしと父の2人の恒例行事になっていた。

また、墓参りが終わって、
父の実家の伯母に、
家に上がっていくようすすめられるのを断ることも
恒例になっていた。


今年は、村はずれの海岸の駐車場で、
伯母が管理人の当番をやっていた。

伯母は、今年はめずらしく家族全員で墓参りに来たことに、
多少の含みのある言い回しをしながらも、
痩せて、衰弱した。
尋常でない、父の様子に心配をしてくれた。

この伯母と母とは、
父のことをきっかけに、後に急速に心の距離を縮め、
仲良くなってゆくことになる。


家の墓は、
この海岸の駐車場のちかくの
小高い山の上にあった。

このころの父の両足は、
ひどく腫れあがり、
片足づつ両手で持ち上げなければ、
車からも降りれない状態であった。

小言の多い伯母の手前、
しんどかったらやめとくわ。と言った父であったが、
山を登る決意を固めていたようだ。

山は高さ30メートルほどであったが、
急斜面で足元は砂地。
ちゃんとした階段もなく、
健常者でも足元を踏みしめながら、
恐る恐る登る。

ふもとで父に、
再度ここを登るのか訊ねたが、
「登る。」と一言、吐息まじりにこたえた。

すぐそこに海があり、
山は木々で覆われているとはいえ、
真夏の太陽は容赦なくわたしたちを焼きつける。

父は渾身の力を発揮しながら、
這うように、一歩一歩山を登った。

墓参りを済ませた村の人が、
「ごくろうさんです。」と挨拶をして通り過ぎてゆく。

今、父が命をかけて戦っていることを誰も知らない。
わたしたちを焼く夏の日差しすら、
あっけらかんとしたものである。

長い時間をかけて、ようやく墓までたどりついた。

下の2人の弟は、
墓参りは、ほとんど長男の私まかせだったので、
父方の先祖についてはよく知らない。

父は弟達に屋号や家系について話してきかせた。

小高いこの場所からは、
果てしない海が見渡せる。
砂浜の向こうに漁港。漁港の向こうに海。
はるかな水平線の向こうに、
うっすらと丹後半島がみえる。

真っ青な海。
真っ青な空。
真っ白な雲。
足元には砂。
この砂は海岸から飛ばされてきたものだ。
セミの声。

去年も、その前の年も、ずっと変わらない風景の中に、
父がいた。


父は、何度か入退院を繰り返すようになった。

わたしと父は、
入院していない時はかならず釣りにでかけた。
家族全員で出かけることもあった。

入院している時も、
週末の釣りについて話した。


父の看病は、
つききりで居る母と、
3人兄弟のなかで、唯一舞鶴に残った
三男に頼らざるを得なかった。

このころの父は、多くなった痛み止めの薬のせいで意識が混濁し、
ときおり人が変わったように
暴れることもあったのだという。

遠くに住むわたしにくらべ、
三男と母の疲労、心労はたいへんなものだったはずだ。
しかし、父を中心とした家族の絆はますます深まるばかりで、
わたしたちは団結していた。


季節が秋を迎え、
父との闘病生活に慣れを感じはじめてきたわたしたち家族は、
もしかしたらこのまま、
ずっと一緒にやっていけるのではないかと
思いはじめていた。


そんな矢先のある晩、
父の容体が急変した。


すぐに駆けつけると、
父は、ベッドを少し起こして背もたれのようにしながら、
静かに息をしていた。

医師のはからいで、
父は、
心拍計はつけず、大袈裟な機械や、チューブに繋がれることもなく、
痛み止めの点滴と酸素マスクのみで、
安らかに眠っているようであった。


そのおかげで、
私たちは父の弱ってゆく心臓を気にする必要もなく、
大きな装置のかわりに、
家族が父を囲むことができた。

父は、もうわたしたちの問いかけに応えることはできなかった。

わたしは病室に釣竿を持ち込み、
父の手に握らせた。


父の得意な釣りは、
脈釣りである。

浮きをつけず、針とおもりだけの簡単な仕掛けで、
魚がエサをくわえたら、
その感覚を竿で感じて釣り上げる釣り方だ。

わたしは、
「父ちゃん魚がかかっとるで。」と声をかけ、
魚がかかったように竿をゆすってみた。

すると、父は素早くパッと竿を握り返し、
魚の当たりに合わせてきた。


その場にいた誰もがおどろいた。

看護師の女性に、
父は起きているのかと尋ねると、

薬で眠っているはずです。
しかし、音は聞こえていますので、
話しかけてあげてください。ということだった。


そのあとも、
何度か父との魚釣りごっこが続いた。
心なしか、
父は笑っているように見えた。

母は、
「魚釣りしてる夢見とってやわ。」といって、
病室になごやかな空気が流れた。


そして、数時間が過ぎた。


気が付くと、いつの間にか、
外はすっかり夜が明けていた。
雨上がりの爽やかな朝だった。

父の様態は安定していた。
三男が自動車を移動してくるといって、
いったん病室を離れた。

病室では、
父の左手を母が、
右手をわたしの家内が握ったまま
ベッドに顔を沈めるようにして眠っていた。

朝日の差し込む病室のその風景は、
まるでダビンチの壁画、最後の晩餐のような構図で美しかった。

わたしは思わず持っていたカメラで写真を撮ろうと思い、
カメラを静かに構えた。

そのカメラのモニターに写った父の顔には、
何か、動かし難い、厳然とした尊厳の表情が浮かんでいた。


わたしはカメラをいそいでしまい、
父に駆け寄り、顔のそばで耳をすました。
胸を見た。

眠っている母を静かにおこした。
「父ちゃん、今逝っちゃったで。」と、母に告げた。


別室で待機していてくれた主治医の先生がすぐに来てくれ、
父の死亡が宣告された。

主治医のH先生は、
父の酸素マスクや点滴をはずし、
家族だけの時間をつくってくれた。

そのあと、
父の体はきれいに拭かれ、
病院のたくさんのスタッフに丁寧に見送られ、
住み慣れた家への帰途についた。

車に同乗した母によると、
遺体の搬送をしてくれた車の運転手のはからいで、
病院から家までの道中を利用して、
父の思い出の場所を巡ってくれたそうだ。

もちろん、わたしと父が見つけた、
あの爆釣ポイントもまわってくれたそうだ。

わたしは、
がらんとした病室に最後まで残っていた。
父は、ベッドごと出て行ったので、
今この部屋は、ほんとうに何も無い空間になってしまった。

開けられた窓から、
気持ちのよい秋のそよ風が入ってくる。
ちかくの小学校で、運動会がはじまった。


当初、
父の病気を知らされ、
父の余後の時間を知らされ、
助かる見込みの無い治療に、
絶望と虚無を感じていたわたしは、
いつの間にかいなくなっていた。

いや、ずいぶん前に
そんな気持ちは失せていたように思う。

父は最期まで強かった。
それにくらべ、わたしたちは戸惑うばかりであった。

わたしたちは、
父にとうとう本当の病名を告げることができず、
最後にとせがむ父に、
1本のたばこをわたすこともできなかった。

そんなわたしたちの後悔にくらべ、
父がこの4ヶ月間でわたしたちに残してくれた、
濃密でかけがえの無い時間には、
はかり知れない重みがあった。



この4ヶ月間。
わたしたち家族は、
とても幸せだったのである。




今日、
10月6日は、わたしの誕生日だ。
そして、父の命日でもある。



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本日のクルー
店長:ランバラル大尉
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お好み焼き「慈恩弘国」
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お好み焼き「慈恩弘国」コミュ(登録=国民)
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2008/10/10 | 慈恩弘国営業日報 | コメント(7) | トラックバック(0) | page top↑
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